8月6日によせて


ニューヨークに暮す知り合いの日本人女性が、日本の俳優、今井雅之氏が原作、脚本、監督、主演をつとめた映画、「ウインズ・オブ・ゴッド」の試写会を見てきたというので、上記の新聞記事を見せたところ、彼女は目を丸くして驚いた。
まさかぼくが、今日自分が見てきた映画とこのような接点があったなどとは夢にも思わなかったようで、彼女は、しばらくこの記事を手放そうとしなかった。


これは1994年、共同通信社のインタビューに応じたときの記事で、ごらんのような見出しで「ウインズ・オブ・ゴッド」とともに紹介されている。
この記事は日本全国の新聞に配布され、大きな反響を呼んだ。


今回、ニューヨークで公開される「ウインズ・オブ・ゴッド」はリメイク版である。
13年たったいまでも、こうしてこの作品へのこだわりを見せる今井氏の想いはすごいが、一方ぼくのほうはというと、現在、およそこの記事の見出しに書かれているような活動はしていない。
最近のぼくの関係者の皆さんのなかには、なぜこのような記事にぼくが登場したのか不思議に思う方もおられるはずだ。


1992年、アタウアルパ・ユパンキが書いた詩、「ヒロシマ-忘れえぬ町」に作曲をし、それがユパンキ本人から演奏許可を得たことで、ぼくをとりまく環境はがらりと変わった。
それまで一度も訪れたこともなかった日本のいろいろな土地から招待をうけ、この巨匠が残した作品の演奏会をしたり、様様なメディアに紹介されたりと、ぼくは本当にユパンキに感謝したものである。
「ヒロシマ-忘れえぬ町」は、すでにぼくのコンサートのクライマックスナンバーとして欠かせない存在になっていた。


ところが、この新聞記事がリリースされたころから、ぼくはこの歌の意味合いについて考えてしまうようになる。
彼がこの至上の詩のなかにこめたものを、自分は正確に伝えることができているのだろうかと。


「ヒロシマ-忘れえぬ町」は反戦の歌ではない。
路傍の小石を見ては涙をながしたという、滅びゆくもの、消えゆくもの、忘れ去られてしまうものに対して優しい気持ちをもっていたこのアルゼンチンのフォルクローレ音楽の最高峰的人物が、1976年に広島市を訪れた際、ただ哀しく滅んだだけではなく、そこからふたたび息をふきかえして、さらに美しくよみがえったこの町を心から讃えて書いたのがこの「ヒロシマ-忘れえぬ町」である。
これは、それまでの巨匠の作風にはまったくなかったものだ。
ユパンキは、美しい恋人に贈る心からの言葉のように、この詩を完成させたのである。


しかし、この記事を書いた方が、ぼくの「ヒロシマ-忘れえぬ町」を聴いてこのような見出しを考えついたとしたのなら、ぼくのインタープレテーションは根本的に未熟で、まったくポイントをはずしてしまっているとしか思えない。


ぼくがもうちょっと器用でうまく立ち回ることができる人間なら、こんなことは考えなかったかもしれないが、ぼくにとって、自分の名前を売るために不完全なものを世に出すことは、芸術家のはしくれとしてあってはならない行為だった。
崇高なユパンキの詩の世界を表現するには、ぼくはその時点でまだあまりに未熟者だったのである。


戦争とは、ふたつ以上の、宗教や考え方の違う民族、国家の間で起こるものだ。したがって、これをテーマにした芸術創作は、たとえ一方の人々に対して感動をよぶものとなっても、反対にもう一方の人々のなかでは、拒絶反応さえおこさせる結果を生むことは避けられない。


ぼくはこの頃から、世界のどこかでそれを見るなり聴くなりする人のなかで、一人でもいやな気分になる人がいるとしたら、それは本当の芸術ではないのではないかと思うようになる。


以降ぼくは、世界のあらゆる人々に共通する普遍的な美しさをテーマにした音楽創りに没頭するようになり、この記事が出た直後、やはり同じ年にはじめて見た、岩手山の美しさをギターで綴った「南部幻想曲」を作曲し、その4年後、さらに3曲を加えて、組曲「ナンブ」として完成させた。

そのときぼくの若い感性でできることは、自分が生まれるはるか前に起こった悲劇について歌うことよりも、誰もが無条件に感動することのできる、大自然の美しさを謳いあげることだった。
それはぼくにとって、組曲「ナンブ」であり、「海の子守歌」であり、そして「ペペのサンバ」であった。
ぼくはこのあと、もっと自分が人間として成長し、ひとりの音楽家として成熟するまで「ヒロシマ-忘れえぬ町」を、心の中に大切にしまっておこうと決めたのだった。


ぼくを昔から知る人には、「なぜヒロシマをやらないのか?」と幾度も問われた。
ユパンキをおろそかにするのかと言う人もいたと思う。
しかしそれはちがう。
軽んじているのではなく、大切にリスペクトするから表に出さないこともあるのだ。
もちろんぼくがとった行動が100パーセント正しいわけではない。
聞きたいという人があるのならプロとして演奏するのは当然のことだ。
しかしぼくは、このあたり自分でも驚くくらい石頭だった。

昨年、広島市で、「ヒロシマと音楽」という本が、市民グループの皆さんの手によって出版になった。
ぼくは、広島の方から贈られたこの本を読み、ユパンキの「郷愁の老木」を想いだし、そして涙した。
ヒロシマの方々もまた、いつもぼくを忘れずにいてくださっている。
ぼくはその年の秋、日本滞在中に、はじめて自分で新幹線の切符を負担して広島を訪れ、ごくごく親しい方たちだけを招いてコンサートを行った
もちろん演奏料は受け取っていない。
広島で、お世話になった方たちを前に「ヒロシマ-忘れえぬ町」を演奏したのは、実に8年ぶりのことだった。


今年も8月6日がやってきた。
毎年この日が来るたびに、ぼくは心で「ヒロシマ-忘れえぬ町」を歌う。
決してこの歌を忘れたわけではない。
ぼくは、この「ヒロシマ」との出会いがあったからこそ世の中に出ることができたのだ。
これはユパンキが、自分の音楽をなによりも愛することは確かなようだが、まだなにもわからずに、ニューヨークのスラム街のバーなどで、ギターを片手にただがむしゃらに叫び声をあげていた一匹狼のぼくに対してプレゼントしてくれた、ほかのなにものにもかえることのできない大切な宝物なのである。
だからこそ、いまから何年かたったあと、もっとぼくが、音楽家としてもひとりの人間としても、少しでもユパンキに近づけたと感じたときに、ふたたびこの歌を、世界中の人々が感動してくれるようなレヴェルで演奏したいと思っている。


2002年の中米三カ国ツアー2004年の中南米四カ国ツアー、そして2005年のペルーへのツアーは、とても意義のあるものであり、メディアにも大きくとりあげられたので、「ヒロシマ」を演奏すれば話題になることは間違いなかったが、ぼくはあえてこのナンバーを演奏していない。


天国のユパンキも、きっとぼくの考えをわかってくれていると思う。
もしかしたら彼は、「あのときおまえさんがあんまりニューヨークで苦闘しているからこの詩を見せてやったのさ。俺の詩にくらべればまったくたいした作曲じゃあないが、とくべつに演奏許可をやることにしたんだ。ありがたく思えよ。」なんて言うかもしれない。

2007年、8月6日記

August 9, 2007 |

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